2009年11月26日

市場から見た技術

市場から見る、つまりマーケットニーズを満たす技術があるかどうか、という
視点である。
ニーズに対してそれを満たす技術がなければ新たに開発をすることもある。
このようにして開発された技術は開発の時点で既に市場調査は終わっていて、
マーケティングはニーズにこたえる解決策というメッセージによって進め
ルことができ、営業上のターゲットもそのニーズをもっているところ、という
事から比較的容易に定めることが出来る。

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2011年11月16日

ザッケローニ監督の作戦と采配に喝采

サッカーの北朝鮮との試合、ザッケローニ監督の作戦は
見事!の一言に尽きる。
ワールドカップ出場の観点から見て意味の無い試合だから
無理をしない。
相手は無茶をしてくるのは見えているからそれに対して
被害は最小限に留める。
極めて特殊な試合環境であることを利用して選手の精神面を
鍛える。
などなど、
さすが、戦いには歴史のあるイタリア人。
これが日本人の監督であたらこのような対処ができたかどうか
判らない。
変にスポーツ魂にムキになってトップクラスの選手をつぎ込み
怪我などさせてしまっては元も子もない。
さらに言えば、面子を立てさせて一点だけ献上し北朝鮮の選手が
炭鉱労働に放り込まれることだけはスポーツ仲間の友情として
救ってやっている。
実に素晴らしい監督ではないか。

2012年5月 9日

コンプガチャ

携帯ゲームのコンプガチャに規制が入った事でいろんな意見が出ている。
将来性があり発展している携帯ゲーム市場にとってマイナス、経済に
マイナスという意見もすくなくない。
しかし、携帯ゲームサービスの欧米進出、とくに米国への進出を考えたら
極めてタイミングを得た適切な規制である。
理由は、海外の家庭の親は日本の親ほど子供に甘くなく、子供が使うお金
は厳しく管理監督しているからである。
日本の親は子供の携帯電話料金の支払いが親によるものであるにもかか
わらず、それが高額であっても同じような子供を抱える親がその支払いの額
を嘆きあうだけでだれも携帯電話会社にたいして、届け出た電話番号にかん
しての月間使用料金規制を求めようとしない。
しかし、アメリカのかなりの親は違う。もし、自分の子供が毎月携帯ゲームで
月に20ドルもアイテムを購入していることがわかり、自分の子以外にも
そのような子供を抱えた親がいるとわかったら親はすぐチームを組んで携帯ゲーム
サービス会社にクレームするとともに社会問題に発展させるだろう。
いったんそうなったらもはや日本から進出した携帯ゲーム会社は叩き潰される
ことはまず間違いない。
これに政府が気がついたのかどうかはわからないが、携帯ゲーム会社の欧米
進出のタイミングにあわせてコンプガチャの規制を行ったのは極めて時をえた
行動である。

2013年2月24日

若すぎる死

先ほど、20日に亡くなった飯野賢治さんのお通夜から戻ってきた。

1時間程の読経の間はかれと仕事をしてときのことなど思いめぐらす
には短いくらいだった。
仕事で共通点をもったのは1998年の正月にセガに最初に出社した
日だった。当時開発中だったセガの家庭用ゲームコンソールの主要な
ゲームクリエーターの一人であり、社外から応援してくれた数少ない
一人だった。15年前だから、彼は当時はまだ20代の後半だったわけ
だが第一印象はとても頼りがいのある人、という感じだった。
その後、ゲーム機の開発が進捗する間、約10ヶ月ほどあったが飯野さん
もまだ不自由な開発機を使いなたら同時並行的にゲームの開発を
進めていた。
その間、印象に残っているのは開発のそれぞれの段階で、開発機を
使って彼が見つけた不具合、あるいは改善点などを教えてくれるときに
それが極めて論理的でわかりやすいことだった。この手の感想は
どうしても感覚的な表現になりがちだがかれの明快で論理的な説明、
提言を聴きながら、その豪快な外見からは想像し難い繊細でかつ
精密な思考構造に何度も感心し、脱帽した。
その後自分は方向を変えたので一緒に仕事をする機会はなかったが
それでも1年に一回程度は接触する機会があった。
享年42歳である。
若くから活躍していたから、人の二倍の人生を送っていたとすれば
84歳に相当する人生だったかもしれない。
しかし、見ている立場からするとこれからが楽しみだったのに、という
気持ちである。
自分を振り返ると42歳のときは最初の会社でのサラリーマンだった
時で、実は42歳の終わり頃から急速に状況が変化し、自分の間口
が広がりだしたときだった。
今感じる面白い経験のほとんどは42歳以降である。
人は同じではないから何とも言えない。
しかし、ひょっとしたら本当に飯野賢治が爆発するのはこれからだった
のではないか、とかれの遺影を見、日蓮宗のお坊さんの読経を聞き
ながら思いめぐらしていた。
その爆発を見てみたかったという思いでいっぱいである。
残念というしかないのだろうか。