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2011年5月

2011年5月 7日

送電と発電の分離

今回の原子力発電事故と、かねてから言われている日本の電気料金の
高いこととを思い合わせて、現在の競争の無い地域独占事業体のあり方
について疑問をもっと人は多いのではないか。
さて、そうはいってもどのような規制緩和があるのか難しい問題ではないかと
思っていたら数日前の新聞に送電事業と発電事業を分離する案の記事が
出ていた。
確かにそういわれてみると発電と言うことと送電と言うことはこれまで一体で
見ていたが何も一体でなくてもよい。
たとえば現在の東京の電車と鉄道の関係を見るとひとつのヒントがありそうだ。
同じ線路の上を複数の鉄道事業者が乗り入れていてそれがゆえに乗り換え
の手間が省けて乗客にとっては便利であり、しかも乗客はどの鉄道の電車を
利用しているのかを意識することなく利用できている。
これを見習うといくつかの送電網が存在してそれが相互に接続されていて
広い範囲での送電網を形成しているところにいろんな発電事業者の発電所が
接続されそこから電気が送り出されていき、利用者はどこの発電所で作られた
でんきであろうと均一料金で利用し、集められた料金は事業者間で配分され
ればよい。このネットワークに接続される発電所のひとつとして企業ガ行う
火力発電などの自社の発電所もあるだろうし、太陽光発電事業者もあるだ
ろうし、家庭の太陽電池あるいはガズから燃料電池による発電などがありうる。

公共性という点からは鉄道も公共事業である。
電気は公共事業だから送電と発電が一体化した現状の地域独占が一番
よいのだ、と主張する電力会社の意見はこのように鉄道と対比してみると
詭弁としか思えない。

電気自動車の普及もあわせて考えるといまが新たな電力サービスの政策を
作る絶好の機会ではないだろうか。

2011年5月 8日

女装家って、、、

最近元気な人は誰だろう?
i一時期のようなIT長者も鳴りを潜めたし、月給が普通のサラリーマンの年収以上稼ぎまくっていた外資金融系もほとんどシンガポールと上海に出て行ってしまったし、、、、大企業の経営者は想定外のトラブルに見舞われ、一日も早く職から離れたいと思っているだろうし、、、
そんなことを考えていたときにはっと気がついた元気な人たちがいる。
判ったような判らないような、きっとテレビ局が名づけたのだろう‘女装家‘という人たちである。
この人たち、テレビを見ている限り、日本の25%は女装家ではないか、と思うほど存在感がある。とても総理大臣とか経団連会長の存在感の比ではない。
しかも同じカテゴリーに分類できるであろうひとでも`女装家‘というキャプションがテレビの映像上に出る人もいれば出ない人もいる。
そんな区別無く、この人たちはとても元気で生き生きしている。
しかも、小気味の良いほど切れ味のよい発言をし、聞いている、あるいは見ている人の気持ちをすっきりさせる。見ている人の思いをずばり代弁してくれているからであろう。
女装家ではない人たちがなかなかずばり言えないことを、この人たちはなぜ発言できるのか?
それぞれの女装家の人たちが持っているキャラクターとか能力だからか?
しかし、それ以外の多くの人のなかにも十分な能力を持った人たちがいないはずはない。たとえば、ビートたけしのように。
女装家の全員が切り口の鋭い発言ができるのには何か理由があるはずだ。
なんて、考えていたら気がついたことがある。
いくつか例を挙げてみよう。
普段掛けないサングラスを掛けたとき、なんとなく強くなったような気はしないか?
パーティーで仮面、つまりマスク、をつけたとき普段では考えられないほど大胆にならないか?
普段はジーンズにラフなシャツとセーターなのに、たまにびしっとスーツで決めたときなんか、発言も芝居がかったりしてはいないか?
つまり、自分の本質の見えない装いをしたとたん、意識が変わり、態度も発言も変わってくるのではないだろうか?
自分を女装という形で覆ってしまうことにより、そのとたん、とてもパワフルな仮面をかぶるのでよけいな気遣いをすることなく、ずばり本音をぶつけられるのではないだろうか?女装というプロテクターを着けているから世の中が怖くなくなるのであろう。
あの女装家の本音発言は実は男の本音発言ではなかろうか?

テレビ局にこの際お願いしたいのは、男女同権の世の中である。ぜひとも男装家と言う人たちもテレビに登場させてもらえないだろうか。
その人たちを通じて女の本音を聞いてみたいのだが、、、、

2011年5月12日

新学期

今年は災害の影響で新学期の開始時期が一ヶ月遅れて
今週から講義が始まった。
新学期の楽しみは新しい学生の顔を見ることである。
どういうわけか毎年タイプが変わる。
おととしは男女比率が55:45.
結構元気の良い学生たち。
去年は男女比率が60:40.
比較的おとなしい学生だった印象がある。

これまで一時限、つまり9時から講義をしたのだが、去年の講座の
終わりにアンケートをとったときに2次限目以降にして欲しいという
要望が何件かあったので今年からは10時40分からの二時限目で
講義をしている。
今年の学生数は22,3名で学科の学生のほぼ半分である。
今年の連中は明るく軽やか、と言う印象だが、初日の印象だが
替わるかもしれない。
目に付いたのはメッセンジャーバッグ。男子学生の半分はあのテント
の古生地で作ったようなバッグを斜めがけにしている。
大学生にもなって、そんなに流行りモノに飛びついてよいのか?と
いう気がしたが服装もそれほど画一的である。
それもこの大学の校風なのか、ちょっと世の中よりも遅れているところ
まで揃っている。

2011年5月13日

想定内か想定外か

昨晩、ある会合にでかけた。
一年に一回ある顔合わせでその都度若干のメンバー変更がある。
例によって自己紹介があり司会者からの指示で最近かんじたことなど、
と言うリクエストがあったので、ほとんどの人が震災と原発事故の
話をしていた。話は状況についての印象で、その状況を知ってなにを
考えたのか、その肝心なところがほとんどの人の話では聞けなかった。
悪い言い方をすればメディア報道の受け売りの範囲である。

あまり原発事故のことは書きたくないのだが事故そのものよりも
そこから考えることがあったので書くことにした。
いまさら何がおきようとそう驚く話ではなくなっていると思う。
昨日も一号機のメルとダウンの報道があったが、この記者会見の一部
が報道されていたのでその範囲で考えたことだが、果たしてこの状況は
想定内のことだったのだろうか?あるいは想定外のことだったのだろうか?
もし、想定内の状況なら第二、第三の対策が用意されていて、すぐにそれ
に着手できるはずである。ただ、報道では次の手についての話は無かった。
もし、想定外だとしたら、この程度のことで想定外であるのなら、彼らの言う
想定外は当てにならない、たんなる思慮不足ということになる。
すぐに第二、第三の対応の話が無かったということからみると想定外だった
のかもしれない。普通に考えれば想定内のことだと思うが、、、
すくなくとも自分にとってはいまさらおどろくべき状況ではなく、もし驚くべき
ことがあるとしたら、これが当事者にとって想定外であった場合である。

2011年5月14日

権利とそれにともなうもの

世の中、せちがらくなってくると権利主張が増えてくる。
既得権にしがみつく見苦しさも見えてくる。
権利はおうおうにして声だかに主張することによって確保
できたり、主張される側は変に説得されてしまうことが
よく見られる。
これは、とくに、日本国内においてである。

その根本はどこにあるのだろう、と昨今気になっている。
大局的な話をすれば、電力会社の地域独占体制である、
これは明らかに電力会社の独占権である。多分、電力会社
はいろんな理由を挙げてこの既得権を主張するだろう。
その主張に対する議論において、主張している側の論点が
果たして権利と対応したものかどうかは考えずその主張の
妥当性だけで判断してしまう恐れがある。

なず、権利が与えられている、ということには必ずそれに伴った
義務が存在する。
義務の遂行を条件に権利が与えられているのである。
ところが、時間がたつと往々にして権利保持者はその義務を
忘れて(あるいは忘れたふりをして)権利のみを、そのときの
都合の良い理由をならべたてて主張する。また、判断する
方にも、権利とは何か、と言うことがわかっていない場合が
多いので権利主張側が並び立てた理由だけで判断しがち
である。

権利には必ずそれにともなう義務がある。
義務が遂行されない限り、権利は存在しない。
また、義務とは求められていることだとしたら、それを最適
仲たちで実現するのはかならずしも特定のところに独占的
に権利をあたえることではないことがある。つまり、権利と
義務の最適なあり方、あるべき形は時間と状況の変化に
応じて変化することを知る必要がある。
つまり、今の権利が決められたときの時代背景と現在の
時代背景が変わっていたなら当然権利と義務の関係も
変わるべきか見直されるべきなのである。
このように見ると社会的体制においては数十年の期間を
へて変化の必要のあるものが残っている。
事業の経営においては環境変化が社会の体制の変化
よりももっとスピードが速いので2,3年の単位で権利と
義務の関係が変わるべき状況になることが多い。
今のスピードの時代に毎年でも、事業の中における
組織が持つ権利と義務を見直さないとあっというまに
事業体制は陳腐化し事業スピードの低下と不振を招く。

この時期、どこの企業でも組織変更があったり経営者の
交替がある。組織変更はおおむね人事異動のみが注目を
浴びるが本当に必要なのはその機会に組織のそれぞれの
必要性とそこに付与されている権利と義務の関係の確認
と、sの認識の徹底である。

2011年5月15日

昨日の収穫ー古本とバー

昨日も夕方、いつものごとく近くの古本屋を二軒のぞきにゆく。
一軒目は収穫なし。
二軒目は川沿いの古本屋。
先週入ったときにはその書棚の場所には無かったはずの本が
目に飛んできた。池波正太郎のエッセイの一冊で絵のたくさん
入った本。探していた一冊である。本の中の紙も焼けてはいなく
とてもきれい。もちろん初版である。
古本と言いつつ新本のときの値段とおなじ。
すぐに買う。
このところ、古本屋には以前から探していた本が見つかる機会が
多い。そんなことを話してなぜだろう?と本屋さんに尋ねたら理由が
判った。
震災以来、本が書棚にたまりすぎて倒れてきたとかで身の危険を
感じた人たちが整理して売っているからだそうである。
今、古本屋は宝の山!?

うれしくなって、ちょっと遠回りをして家に向かったら`ギネスのドラフト
あります‘と黒板にチョークで書かれた看板を発見。まだ十分明るい
にもかかわらず看板に惹かれてそのバーに入る。
ギネスのドラフトを注文。イギリスのバーのようにワンパイントのグラス
ででてくる。
奥行きの深い長いカウンターがありカウンターの背後にはボトルが
たくさん並んでいる。そのほとんどがウイスキーというかなりハードな
まさに英国風のバーである。
目の前に並んだサーバーを見ていたら一つ見慣れないサーバーが
ある。銘柄を聞いたらビールではなくシードル。それもイギリスから
輸入している、これまたドラフトのシードルだそうである。
我慢できず、でもワンパイントは飲めないので半分だけもらう。
しっかりした濃さで甘さも控えめな夏にはぴったりの飲み物。
バーテンさんもしっかりロンドンで修行してきた人。

店の名前はTriple Crown,場所は中目黒から大橋に向かって野沢
のほうに行く道との交差点を野沢方向に入って一本目を左に曲がった左側。

2011年5月16日

不道徳教育講座

不道徳教育講座、本のタイトルである。
このタイトルを見て、三島由紀夫の著作だとわかる人は60代か
三島由紀夫ファンだろう。
発行されたのは昭和34年3月、西暦では1959年のことである。
日本が大きく成長路線に入ったのは1964年であったからそれよりも
5年も前のことであり、自分もまだ高校生になりたてのころである。

最近、週末に歩きながら近隣の古本屋を見てまわっていると毎回
面白い本を見つける。本当は自分が見つけているのではなくて
本のほうが自分を見つけている、と言いたくなるくらいである。
この、不道徳教育講座も昨日みつけた。一昨日、池波正太郎のエッセイ
を見つけた同じ店である。一昨日は気がつかなかったのだが、昨日は
店に入ったとたん、目にタイトルが飛び込んできた。
昨日、一昨日に買ったこの二冊はいずれも初版本である。それが
どれほどの価値のものかはわからぬが、、、

ここに書こうと思ったのはその中で書かれていることのタイトルは
50年たった今でも新鮮にかんじたからである。
というわけで、最初のほうのタイトルをいくつか紹介する。

ひょっとしたら文庫本で今も売っているかもしれないから興味のある
方は詳しくはそちらをみていただきたい。

タイトル

ー知らない男とでも酒場に行くべし
ー教師を内心バカにすべし
ー処女・非処女を問題にすべからず
ースキャンダルを利用すべし
ー友人を裏切るべし
ー弱いものをいじめるべし
ーできるだけうぬぼれよ
ー流行に従うべし
ー約束を守る無かれ
ー女には暴力を用いるべし
ー痴漢を歓迎すべし
-からお世辞を並べるべし

きりが無いからこの辺で終わる。

2011年5月18日

つぎは男装家?

昨日、出張先から東京に戻るとき、空港に早めに着いたので一緒に出かけた
なかまと空港のラウンジで時間つぶしにおしゃべりをしていた。
だいたい、このように予定もしていなかった空白の時間のときの時間つぶし
の話題はくだらないものである。
最初のほんの少しの間はメルトダウンが話題になったもののすぐに別の話題
にスイッチ。
どんなながれでそうなったのかは定かではないが、ゲイバーには行く気がしない、
と一人が言ったことから女装家の話題に展開。そこから発展したのはそういえば
男装家というのはどうなっているのだろう?いないな。というところでボーディング
の呼び出しのアナウンス。ラウンジトークはここで終了。
帰りのフライトの中で考えていたら宝塚のことをすっかりわすれていた。まさに
男装の殿堂である。でも、どこかいまはやりの女装家のテイストとはことなる。
それではどんなタイプの男装家が現れればおもしろいか?
タイプとしては脂ぎった中年男のタイプと、めちゃくちゃな主張をするが、しかし
もっともらしいタイプがまず思い浮かんだ。
なかなか、日本人では思い浮かばないが、たとえばイタリアの首相のベルルスコーニ、
撃ち殺されてしまったオサマビンラディンなど、どうだろう?
密室でのイラ菅などもおもしろいかもしれない。女装家と男装家を一堂にあつめ
異姓バラエティショーを企画すれば視聴率ナンバーワンは間違いなし。
いまは女装家だけだから面白さにも限界がある。女装家と普通のキャストの
対決なら女装家が勝つのに決まっている。

2011年5月23日

ブルータス 本屋特集

ブルータスの最近の号が本屋を特集していた。
本屋という文字に引かれてさっそく購入(ブルータスに惹かれたわけではない)。

期待は昨今贔屓にしている中目黒の古本屋が出ているかどうか、である。
この期待感は微妙で,贔屓をとりあげてくれているか?という期待と
こんなところに取り上げられて自分の宝庫が荒らされるのはいやだな、という
心配の両面である。
結果的には贔屓の三店とも取り上げられていなかったのでほっとしたような
がっかりしたような、、、、。

とくに、いつも人であふれている、多くの読書家に格別の支持を得ている
ブックオフが特集に取り上げられていなかったのはこの特集の性格が読めて
面白くも可笑しくも懐の深さの程度もわかってほくそえんでしまった。

著作権の保護は重要である。一方で知識情報の共有の拡大も重要である。

日本では昔から街の貸し本屋があった。実は子供のころから高校生ごろまで
ずいぶん貸本屋のご厄介になった。いろんな本が読めたのは貸本屋のおかげ
だとおもっている。
我が家のそばのブックオフは常に人が一杯である。
仕組みとしていろんな問題がある、あるいはいろんな意見があるのかもしれない。
しかし、これだけ流行っているのは牛丼やとブックオフである。
読書文化をかたるならブックオフの存在は無視できないのではないだろうか。
たんに形式としての本屋を見てみるのであれば別だが、、、、

久しぶりのクラシック

先週、久しぶりにクラシックのコンサートに出かけた。
バイオリンのリサイタルである。
アーティストは瀬川祥子さん。
祖母が音楽大学のピアノの教授、
母親は三姉妹の真ん中でビオラ奏者、ほか二人は
ピアノ奏者とバイオリン奏者という音楽一家。
祖母から見ると三代目というわけである。
音楽はDNAの影響が強いといわれている。代が進むにつて
DNAが濃縮されるのだろう。

半年ほど前、はじめて演奏を聴いた。
そのときの印象は鋭く繊細な演奏、という感じだった。楽器の性格か
と思いながら聴いていた。

今回が二回目。
場所も時間帯も同じ、演奏家も伴奏も前回と同じ、さらに自分が聴いた
席もおなじ。
わざわざ同じ席にしたのは最前列がちょうど空いていて、前回座った
真ん中が空いていたので同じ席なら同じように聴けるだろう、との
考えだった。

聴き始めると、あれっと思った。
結構、聴いた演奏は覚えているほうなので今回も前回の演奏のイメージ
をもって聴きにいったのだが、耳に入ってくる演奏は自分が持っている
記憶の演奏に合致しなし。
曲目はもちろん異なるが、演奏スタイル、音色など曲目が異なっても
共通なものはいくつもある。
鋭く、繊細なイメージをもった耳に入ってきたのはふくよかで張りのある
音である。前回は楽器のほうが演奏よりも特徴的であったが今回は
演奏にしたがって楽器が鳴っているという感じである。

ひょっとして席が違っても会場がちがっても前回との演奏の違いは
気がついたかもしれないが、これほどはっきりは判らなかっただろう。

明らかに演奏は進歩していた。
次のリサイタルではどんな変化を聴かせてくれるか、楽しみである。

表現工学科 講義資料5月17日、5月24日

今年の表現工学科の講義は5月10日からスタート。
あいにく、スタート直後の17日はやんごとなき用で休講。

その17日の資料と24日の資料を添付する。
出来れば、24日にできるだけ17日の分に加えて24日の分
もカバーする予定20110517.pptをダウンロード

20110524.pptをダウンロード

2011年5月24日

千年に一度のことなのに、、、

震災以来、その社会的対応を見ていてどうもすっきり収まらない
ことがいくつかあった。
なぜ、納得できないのか、すっきり理解できないのか、常に考えて
いたわけではないが数日前にちょっとひらめいた。

今回の震災は千年に一度起きるか起きないかといったことである。
まず、それを平常時の社会の運営を前提としてつくられた現行の
法律で処理できる、とおもっているのだろうか?
いろんなところで、法的には、、、という出来ないことに対しての理由
が出てくる。そもそもこのような状況下で現行の法律を前提に
法的には、、、という話が通用すると思っているところがおかしい。
立法府がある。法律をつくるところである。官僚がいる。法律案を
作成するのが大きな仕事である。
いまこそ法案つくりの日ごろの腕を発揮してほしい。

復興国債の話もしかり、である。
子供の代まで負担を残したくない、など経常収支を補うための国債
発行と同じ次元でしか見ていない発言がある。
千年に一度のことの対応が数年でできると考えている。
千年に一度のことで必要になる国債なら千年国債とは言わずとも
百年国債が発行されてもよいのではないか。

多額の国債発行はインフレを招かないか、という懸念も中央銀行の
偉い人は思っているらしい。
しかし、現実をみると何十兆円かの試算が失われたわけである。
バランスシートががっくり傾いている状態だろう。
そのバランスを戻すために資金注入をすることがインフレを招くの
だろうか?
ここでも非常時発想がなされていない。

結局、なんとなく変だ、と思っている根本は非常時なのに平常時
の発想で考え行動していることではないだろうか。
もちろん、ごく一部の人たちだろうがそれがイニシアティブを持って
いる人たちがそうなのだから始末が悪い。よく言われる危機感が
足りない、というのはそういうことなのだろう。

2011年5月29日

5月31日(火曜日)講義資料

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